一山派時代
当寺は、太白真玄の『峨眉鴉臭集』の一文により、明徳元年(1390)春に、壇越土岐満康が
太清宗渭
(京都・相国寺
塔頭
雲頂院開祖)の直弟、
竜潭宗濬
を住持に詔請した。しかし、多忙のため、その師弟太白真玄にその地位を譲ったため、
太白真玄が赴任し開山となり、大寿山崇福寺が整備されていったことがわかる。
その後、この寺は弘済寺とも呼ばれていたようであるが、百有余年の間に衰退をしていくのである。
妙心寺派へ
当山には
斎藤利匡
画像があるが、
『屋愚集』
等と照らし合わせてみると、本寺が百有余年を経て、兵厄にかかり、廃寺同然になっていたのを、
永正八年(1511年)、斎藤利匡が整備したことがわかる。これは、守護館の革手から長良福光への
移転に伴って、細目から福光へ住まいを移したからであろうと思われる。『屋愚集』の中で紹徹という
五山派らしき僧が、記している。永正十四年(1517年)には、梵鐘も鋳造されていることがわかる。
神護山崇福弘済禅寺と改称し、
悟渓宗頓
の
法嗣
(継承した老師)、
独秀乾才
を招請し開山とし、この時に臨済宗妙心寺派に転派したのである。因みに、独秀門派は
1000ヶ寺(現在800ヶ寺弱)を超えるほど隆盛したのであった。
歴代住職
独秀乾才禅師(
勅諡法智普光
禅師)は尾張の出身で、崇福寺住持の後、大徳寺第66世となり、妙心寺や瑞龍寺にも住し、
永正11年(1514年)示寂。当山の
頂相
(画像)は、自讃のもので、前年に法嗣の一人、
宗統主座
が以来したことがわかる。二世は
仁岫宗寿
で、後に妙心寺第27世となった。土岐政房に請せられ、南泉寺の開山にもなっており、
「屋愚集」等を残している。
三世は、あの有名な
快川紹喜
(
特賜大通智勝
国師)である。寺伝によれば61歳まで崇福寺に住し、
慧林寺
の山門で衆僧百余名と共に織田信忠に焼き殺されている。その死の際に「案禅は必ずしも山水をもちいず、
心頭を滅却すれば、火自ずから涼し」という名言を吐いたことは、余りにも有名である。快川国師は、
妙心寺にも出世(奉勅入寺三日間)をしている。又、崇福寺にいる時、別伝事件という斉藤(一色)義龍が
引き起こした宗教弾圧にも屈せず、真っ向から反対し、美濃の妙心寺派をたばねて、問題の解決を図った。
正に快川国師の真骨頂であった。
四世・
拍堂景森
、五世・
虚菴慧洪
、六世・
一宙東黙
(勅諡本源自性禅師)、七世・
慶甫
玄賀、八世・物堂宗接、九世・萬獄
東宜
、十世・関渓
秀一
、十一世・
雲堂
禅紫、十二世・十州祖郡、十三世・
王泉恵昆
、十四世・
龍睡
全珠、十五世・
驪山宗初
、十六世・
揚宗
無範、十七世・春豊
胡垣
、十八世・梅豊文英、十九世・法舟義勇、二十世・照宗恵寂、二十一世・
玄宗恵遠
、二十二世(現在)
恵岳
康道と法系は続いている。
崇福寺と織田信長公・戦国時代
当山は、織田信長公が岐阜に入るや否や、菩提寺に定めている。本能寺の変で信長・信忠公が
討たれると、側室(その当時は正室に近かった)小倉お鍋の方が、折り紙(手紙)と共に、
遺品を当山に遣わしている。当山本堂裏庭に、派下と位牌所があり、その他にも、肖像画・櫓時計・
墨書・教訓の絵・禁制書等が残っている。当山に関係のある快川国師と信長が、慧林寺において前述
のようなことになろうとは、誰が予測し得たであろうか・・・。
戦国から、江戸始めに活躍した西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄公は、二世仁岫和尚の頃に、
小僧として当山で修行していたが、父子六人が戦いで亡くなったため、還俗し、侍として立身出世し、
梵鐘を寄贈したが、残念ながら太平洋戦争で供出したため、再鋳せざるを得なかった。
関ヶ原合戦の一ヶ月程前、稲葉山城(岐阜城)には、信長の孫、三法師秀信がいたが、家来の反対を
押し切り、西軍についたため、同城は落城。家来たちは、討死にや割腹自殺をし、その際に床板に
血痕が付着したものを本堂前周辺部に天井として張りつけてある。これが、崇福寺の地天井である。
尚、城主秀信は市内の円徳寺(浄土真宗・本願寺派)で剃髪し、高野山へ落ちのびたが、若死にをしている。
最近になって、彼の地で内室や側室を設けていたことがわかり、子孫の方々が、岐阜や当山にもおいでになられた。
江戸時代になると、徳川家より32石をいただき、朱印地に指定された。三代将軍家光公の乳母、
春日局と当山七世慶甫和尚は、姻戚関係にあたり、家光公の色紙や、道中煙草盆等が現在まで残されている。
同時代には、有栖川宮家の祈願所にも指定され、ゆかりの品が数多くある。昭和7年11月9日には、
有栖川宮御息女、徳川御後室、實枝子女王が当山にも御成になっておられる。当山十九世法舟義勇和尚の
内室は、有栖川宮家の養女であり、宮家からの嫁入り道具等が残っている。
現在・・・
現在、数百点の寺宝や古文書類の整理を行っている最中である。いずれまとまった、図録や寺史として
後世に残すべく努力は惜しまないつもりである。又、寺観の整備にも心掛けているつもりである。
しかし、何といっても大切なのは、現在生きておられる方々とのコミュニケーションであろう。
その為に、ビハーラ学習会やコンサート、喫茶法話等を通じ、寺院が憩いの場にならんことを切に願う次第である。
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