織田信長公父子廟 −岐阜市史跡−
信長、信忠父子の廟所は本堂裏にあり、墓の高さは139cm、巾39cm、厚さ30cm、 位牌形の石碑で縦に両分して、父子の法名を左右に並べて刻んである。
総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士 覚霊 (信長)
大雲院殿三品羽林高岩大禅定門 神儀 (信忠)
墓地の右側に位牌堂があり、土壇の上に4m四方の格子塀に囲まれて、 宝形胴葺屋根木造彩色の小堂に父子の位牌が安置してある。またその正面に 巾2.5m、奥行2.9m、入母屋銅葺の読経堂がある。
(位牌堂解体修理、平成6年6月完了)
禁制書
永禄10年(1567年)8月、織田信長公、美濃に入るや、先ず禁制を出して、 当寺を菩提所として特別保護をしたのである。
禁 制
當寺並門前、可為如前々、猥伐採竹木、於致陣取・放火・濫妨狼藉輩者、可加成敗之状如件
永禄10年9月 信長(花押)
崇福寺
当寺ならびに門前では、前々からの規定を守れ、みだりに竹木を伐採したり、陣取ったり、 火を放ったり乱暴狼藉したりするものがあれば成敗を加えるぞ。
地天井
本堂の”血天井”は、信長公の孫、三法師秀信が慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の前夜 (約1ヶ月程前)西軍に属し、東軍の攻撃を受け岐阜城が落城した際、戦死した将兵の霊を弔うため 城の床板を天井に張ったもので、今でも血痕が付着している。
なお、三法師秀信は数名の家来に伴われ、高野山に落ちのびたが、かの地で若死にをしている。
その他
織田信長公画像
伝織田信長公筆「雪月花」
信長公、信忠公位牌
北畠中将(織田信雄)あて織田信長書状
伝織田信長公愛用櫓時計
※信長愛用と伝わっていましたが、江戸時代に作成された可能性があります
清洲城鯱瓦
織田信長公教訓の絵
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