一切皆苦
この世の中は一切皆苦(すべてのものは苦しみ)である。「苦」とは、「自分の思い通りにならない」 ということである。まず、「生まれてきたこと」は選択の余地がないし、「老いること」もどうしようもない。 「病むこと」だって、誰も好きで病気になるのではないし、「死ぬこと」は総ての人に必ず例外なくおとずれる。 以上の生老病死の四つの避けられない苦を四苦という。
さらに、どんなに愛する人とも別れる時が来ること(愛別離苦−あいべつりく)、どんなにいやな人でも 顔をあわせなければならないこと(怨憎会苦−おんぞうえく)、求めても思い通りにならないこと(求不得苦−ぐふとくく)、 人としての肉体・精神があるために生まれる苦しみ(五蘊盛苦−ごうんじょうく)の四つを、生老病死の四苦に加え 「八苦」という。実は「四苦八苦」という言葉はここからきているのである。
それでは、どうして世の中思い通りにならないことばかりなのであろうか。
諸行無常
それは、総てのものは移ろいゆく、諸行無常であるからだ。すべての存在、あらゆる現象は生じ、 そして滅する。当然、私達もその流れの中にあるのである。だから自分ではどうしようもないことばかりなのだ。 だから「諸行無常」を正しく認識し、「何事も自分の思い通りにはならない」ということを受け入れることが 大切なことなのである。総てのものは生じ、変化し、滅するというのに、私達は目の前のものに執着したり、 「自分」にとらわれたりしがちなのである。
上述の「どうしようもない」という言葉であるが、「人生をあきらめましょう」というような意味あいとは違うのである。 「あきらめる」という言葉には「諦める」のほかに「明らめる」(物事の事情・理由をあきらかにする) という意味があるのである。
「人生を明らめる」ことにより、執着から離れ自由自在になることができるのだ。
茶碗などをあやまって割ってしまい、「形あるものは必ず壊れる」ということが、実感できる。私達の住む この環境の世界は、総てがとどまることなく生まれ、やがて消えていくということの繰り返しなのである。
どうしてこのようにこの世は無常なのであろうか?
因縁
この世に存在するすべてのものは、因(直接的な原因)と縁(因がどのような方向に行くか決まる条件) によって成り立っているのである。たとえば、植物の種を蒔くとすると、種はやがて発芽し、 成長して花を咲かせて実をつける。この場合、発芽の直接原因(因)であるが、周りに十分な土・水分・栄養・光という 条件(縁)があって初めて発芽するのである。種を蒔いた人は、種を蒔くという直接的な原因だけでなく、 まず種が発芽するという条件(縁)がなければならない。このように、あらゆる縁があってはじめて実がなるのである。
上記のように、この世にあるもの、すべてが移ろいゆくのは、すべての存在がつながりあい、支えあっているからなのである。
諸法無我
諸法無我−しょほうむがという言葉が仏教にはある。「あらゆる事物には、永遠・不変な本性である」 我(が)がないということ。」という意味である。私達の存在も含めてすべてのものは、その存在の中心と思えてしまう 「我」がないとはどういうことなのであろうか?「自分にはこの体があるし、五感で感じ、頭で考えることが できるのではないか」という疑問が生じてくるであろう。
自分が生を受け、呼吸や飲食をし、親に育てられ、教育を受け、いろんな人に出会い、今に至っているのだ。 もし呼吸をしていなかったら、生きていない。食べ物が違えば、体型も違う。今、ここに自分があるのは、 これまでの様々なご縁のおかげであり、自分というものは、運命によってこうなるべくしてなったものではないのだ。 自分の存在も、諸法無我のこの世界では、様々な因縁の内に映し出された影のようなものと言えるのではないか。 「諸法無我」とは、「諸行無常」を違う側面から言い表した言葉と言ってもよい。